昭和42年03月10日 朝の御理解
御礼を申し上げると言うても、お詫びをさせて頂くと言うても、その御礼が御礼として、神様にお受け頂かなければ、御礼の値打がございません。いかに平身低頭お詫びしたところで、そのお詫びが神様のお聞き届け、お聞きずみにならなければ、お詫びしたことになりません。ですから、言うなら、御礼もお詫びもやはり、どうぞお聞き届け下されという願いがいる訳でございますね
。してみると、お礼とかお詫びとか願いとかとこう、祈りの内容を三つに分けて、いつも私は申し上げますが、その一切のお詫びとか、お礼とかと言うことの中にも、願いがあると言うことが分かりますですね。ただ、すみませんと、ありがとうございますと言うただけでは、いかんのですよ。私のお礼を聞いて下さった。私のお詫びを聞いてお許し下されたという、それがなかならければ。
いくら詫びても詫びても神様が、許しなされなかったら、お詫びした値打はないでしょう。いくら、その素晴らしいものでも、お供えでもさせてもろうて、そしてそれを、お礼のしるしとして申しあげても、神様はそれを、知らん顔してござるなら、お礼がお礼にならんじゃないですか。皆さん、月次祭なら月次祭にです。鯛のお供えをする方もあります。お神酒のお供えもする方もあります。
それは言わば、お礼のしるしであります。又、お詫びのしるしというような人もあるかも分かりません。けどその、しるしがです、しるしとして受けて下さらなかったら、値打はない訳ですもんね。神様が受けて下さったというそのものです。いつも私、例をもって申しますように、隣にまだ、叔父叔母達が元気でおります時分に、近所から、見事な大根を頂いたと。
あんまり見事だから、叔父が叔母に「あんまり見事じゃけん、はよ善導寺に持って行って、お供えせろ」とこう言われる。叔母は、すぐそれを持って、お供えに行った。勿論、初代の頃ですね。すぐそれを、お三宝にお供えなさったんですね。そしたら、御結界につかれた初代の親先生が「田中さん、今日の大根は、神様が七代、ひちだい、七代のお供えとして受けて下さったよ」とその、仰ったと言う事でございます。
問題はその、矢を射るようなと言いますがね。止むに止まれて言いますかね。まぁ素晴らしい、まずこれを神様に。それなんです。それが、例えば、ほんなら、大根一本でも、その一本の大根が、神様は、七代のお供えしただけの値打ちを持って受けて下さっている。ですから、そのお礼を申し上げるても、お詫びをさして頂くでも、お礼やお詫びが、お聞きずみであり、又、お聞き取り頂かなければならないところにです。
そのことを願わしてもらうという事が必要と言う事になるですね。ですから、お詫びにでも、お礼にでも、やはりひっくるめて言うならば、最後は願いでなかならければならないと言う事なんです。その願いというのは、学生新聞の見出しではないですけども、根賀以である。喜びをもって根とするものでなかならければならない。という事と同時にです。神様がお聞き届け下さるという内容のものでならなければならないです。
そこで、ほんなら、例えば、願いなら願いという事になり、そういう意味ではなくて、私共が、どうぞお願いしますと言う、その願いそのものがです。不健康な人は、健康を願うだろう、金銭の不如意の人は金銭のお繰り合わせを願うだろう、人間関係の難儀を感じておる人は、どうぞ人間関係の上にも、お詫びをもっておかげを頂かせて下されいという願いを持つだろう。
果たして、その願いがです。その願いが神様に間違いなく聞き届けて下されるというものでなかならければならんのですよね。が、じだんだを踏んで、といったような願いでは、それでも、聞き届けて下さらん事はないけれども、それを聞き届けて下さるというだけであって、お道でいうところの願いにはならないと私は思う。あれは、誰でしたか。梅ケ谷何かと言う横綱がおりました、有名な。
そのお相撲さんのお母さんと言う方はね、その子供が出生と同時にです。「どうぞ、この子をなんでも良いから、日本一のと、名の付く者にお引き立て下さい」という願いを立てたんです。親の悲願なんですね。勿論、金光様の御信心ではございませんから、ただ、その願うだけを願うたんです。その代わりに、その神様にお願いした。「日輪様の御陽気をもって、子供の汚い物などの、干すような事は、決して致しません。」
という願いを立てたんです。子供の下着類とか、おむつ類といったような物をです、決してお天道様には当てては乾かさんと、で、冬なんかはもう、自分の体に当てて乾かしたと言われております。教祖の神様が仰るように、わが心に神がござるから、一心を立つればおかげになるのじゃという願いなのです。これは。わが心に神がござるから、一心を立てる。しかも立て貫くと、そこに、いわば、奇跡が生まれるのです。
わが心に神がござるから、一心を立てればおかげになるのじゃとこう仰る。ところがそれでは、お道の御信心のいわば、御利益と言う事は、。皆さん言えんでしょ。どういうところが違うと思いますか。お道の信心の願いというのは、どこに違いがあると思いますか。どうぞ、おかげ頂かせて下され。その代わり日参は致します。その代わり、断食を致します。その代わりにあれを断ちます。
これを断ちますというような願いだけでは、私は、お道でいうところの願いにはならないと思うのです。そこで皆さんの願いというものを、やはり検討してみなければなりません。そして自分の願いというものが、いわゆる金光大神を通して天地の親神様が願いなさっておられるところの願いに当てはまった願いをさして頂いておるかどうか。しかもそれには、一心を立てるところの切実さといったようなものがあるかどうか。
いかにどんなにいわば、立派な願いを致しましても、それに修行が伴わなければ、切実心もない。一生懸命、願いと言うものが無かったんでは、又、これは成就にはならないと思うですね。今朝私は私は、だいたいその、子供達のことを願うというような事は、まずないのでございます。ところが御祈念中に、ふっとその隣で、中学生達が二人で、直子と幹三郎が、試験勉強をしておることを、ちょっと気付いたんです。
夕べからやっておるです。その時に私は、どうぞ試験が立派に出来ますようにという願いはしなかった。よく皆さんが言われますよね。どうぞ、本人が頂いておる勉強の力とでも申しましょうか。本人が実力を充分に表す事が出来ますようにという願いをなさる方があります。それも私は、どうぞどうぞおかげを下さいと言うだけよりも、ちょっと、やっぱりいいと思うですね。
本人がもっておる神様の事は願わせん、がむしゃらな事は願わせんけどもです。本人がもっておる例えぱ実力というものは、途中で度忘れする様な事の無い様に、実力が充分に発揮が出来ますように、おかげを頂かして下されとこういう。ところが実力がなか時に、落ちることになりますもんねこれは。そこで実力はなくともです。やっぱりおかげを頂かして頂きたいと思うなら、願わなければならんのですけれどもです。
これは私の場合ですね。今度の検定試験の場合なんかは、私は本当にあの百点がなん点かあったろうと12科目の中に。90点もいくつかあった。80点もあった。まず70点より下がったのはまずなかったろうと、自分で確信しておるんです。その中のですね、社会という。社会なんかはもう、実を言うたら私は、O点であったかもしれんという程に、何にも分からなかったです。
第一私がラジオを聞かない、テレビを見ないでしょう、新聞を見ないでしょう。新聞は、あぁして見とりますけれども、あれは新聞はですね、大きな見出しをちょっとこう、見ると同時に、漫画ば読むような事です。他はもう見ない。以前は、全然見ませんでした。これは、神様からお指し止め頂いておりましたから。ですからその、社会の事が明るいはずがないです。
いつ何の選挙がどこであるやら、国際間題がどういう風になっていきよるのやら、そりゃ、祈りは致します。けれども、そんなら、それをよく知らんのです。今度、アメリカが、ベトナムの戦争に予算してある金額は、いくらかと言ったような問題が出たんです。知るはずがないです。今度ただ今あの、中国で文化革命というのがあっている。そこで、中国にある様々な文学書ですね。
書物の中に問題になった書物があるが、この中から、どれかを選れと言うような問題。西遊記、論語、燕京夜話。燕京と言うのは、北京の事ですね。燕京夜話と。この三つが書いてありました。そしてその最近、その文化革命のそれが間題にした。全然、分からないです。けれども、どうもその、感じからですね。どうも燕京夜話であろうと、私は思うたんです。どうも、そういう思いがするわけなんですよね。
問題になるような感じがするんです。ところがです。私、何にも分かりませんもんですから、神様にお願いすると、神様、ひとっつも分かりません、と私が。そしたらもう、それこそですね。もう豆まき出すごとあったですよ。神様が、それが、こうだと、こういう風に丸を付けなければいけんのですよ。何十かの問題があるんです。それに、それがこうだと教えて下さるのに、ずっと、丸を付けていきました。
そんなら、私が申します。諭語とか西遊記とか、そのことの時も、私が、人間心で、はっとこう思うたんですね。はぁこれは、分からんばってん、燕京夜話じゃろうと、こう思うたんです。そしたら神様が、一番上の西遊記と頂くんです。どげん考えたっちゃ、西遊記てんなんてん、おとぎ話のごたるものがですね、私は、問題になろうとは思わなかったんですよ、実は。
だから私は、とにかく、みんな神様任せですから、神様のそれに付けたんです。あとから消してみたら、やっぱ、西遊記でしたよ。一事が万事そうでした。ですから社会は、0点のはずのが、私は百点でした。これなんかは、ほんなら、実力以上。実力はなかっても、神様がおかげ下さってるということが分かるでしょうが。もう皆さん、私が、試験の時は、そげんして下さり、そこにはですね。
神様の願いというものが、そこに込められているのです、そこには。私の試験ということには、この度。さぁみんなが、神様のおかげですけれども、教義とか、教祖伝とか、教導とか。これなんか全部百点であったと、自分で思うです。又、宗教一般なんかもそうだと思うんです。これは、しかし、私が勉強して、言うなら神様のおかげで、お守りさせて頂いておるのです。
だから、勘違いもあれば、勘違いがあれば、それはやっぱり、違う事になる訳なんですけれども。ですから、そういうことだけではないことが分かりますですね。ただ、どうぞ、実カのあったなら、実力を十分に発揮出来ますようにと、私が、一生懸命、もし願っておったとするならばです。恐らく社会問題は、0点であったじゃろうと、私は思います。ですから、そういう、ケチなことでもないことが分かりますですね。
いかにも、それは筋が通ったようにありますよ。実力を発揮させて下さいという事は。けども受からなければいけないものであるならばです。どうぞ実力がなくても、そこんところが、神様のお働き頂けるような、常日頃の信心が出来ておらなければならんという事が分かります。今日も、私、子供達の試験の事を、今の部屋でしておりますから。けども、ほんに夕べ、家内がそのことをお届けしとったたいと、こう思うた。
けれども、私の願いというのはです、どうぞ、子供達がああやって勉強させて頂いておりますが、行く行くは将来どうぞ、お道のお役に立たせて頂きます、氏子として、それが落第点なら、落第点を取る事がです、お道の教師ならお道の教師にお取り立て頂くことのための、それが神様の御都合であるとするならば、いといませんと言う事なんです。この若先生が、東京の大学の受験を致しました時に、落第を致しました。
三回も受けたけれども通らなかった。けれども後々で良く考えてみると、もし大学に行っておったら、椛目が現在こうになっていなかったと言う事。その年あの人が学院に行かなければならない様な事になったんですから。だから一年遅れてその翌年大学をまた受験さしてくれという条件のもとにやったんですけども。もう一年後にはお道の教師を志すからには、もう是でよいと言う事になって、おかげを頂いたんですから。
落第する事がおかげであることが分かるんです。ですから今日も私ちょうど行く行くはです、道の教師としてのお取り次ぎお働きをお願いさせて頂きました。同時に、皆さん、早くお参りなさった方は、お聞きだったでしょうが、御神前からですね、カチッというおいさみを頂きました。そういう願いであるならば、神様がお聞き届け下さるという事が感じられます。それは、なぜかというとです。
日ごろ、難儀な氏子がお取り次ぎ助けられるところの御用をさして頂く、そのことを願っておるのですから。神の、これは悲願であり願いなのですから。言うなら、難儀な氏子を取り次ぎ助けられることの為の、お道の教師にでも、お取り立て下さいという願いなんです。為には、私が、それこそ、梅ケ谷のお母さんじゃないですけれども、その為の修行ならば、いといませんと言うものがなかならければならんという事。
又、そのことに一心を立てて切実な心を持って、神様にお願いしとるけん、どうにかなろと言ったような、ザッーとしたようなものではなくてです、そのことの為に、切実な祈りと、言わば修行が伴うたおかげを頂かなければいけないという事を思います。そこでお道の信心の願いというのは、お礼にもお詫びにも、やはり、最後は願いであるけれども、私共が、どうぞ、あぁして下さい。こうして下さいと。
病気を治して下さい。お金をお繰り合わせ下さいという、その願いとてもですその願いの焦点が、どこにあるかと。その願いがですいつも私が申します。神も喜び氏子も喜ぶという。神も立ち行けば氏子も立ち行くという願いになっておるかどうか。そこに繋がっておるかどうかと言う事が、大事だと言う事が分かります。ただ億万長者だけを願うて。言わばそのおしめやらは、お天とう様に当てませんという修行をすれば。
億万長者になるかもしれません。けれども、その億万長者になっただけでは、いわば様の願いには答える事は出来ませんという事。億万長者にならして下さい。その億万の金が、神様も喜び頂けるようなことに、自由自在に使われるようなお繰り合わせを頂かれるというものに、つながっておらなければ。健康だって同じこと。人間関係だって同じこと。そういう自分の願いというものをです。
やはり、検討さして頂いて、まず何と言うても、お礼とかお詫びとかさして頂いておるが、そのお礼やらお詫びが神様に聞き届けられておるかどうか。どうぞお聞き届け下されという願いがいるということと同時に、私共が、どうぞ、ああしてこうしてと言うて願わせて貰う、その願いがです。筋道だった願いであるという事と同時に、神も喜び氏子も喜ぶと。しかもお取り次ぎを下さる金光大神も喜んで下さるような。
喜びに繋がるところの、喜びをもって根とするところのです。願いに繋がっておるかどうかという、ここに自分の願いというものをです。再検討する必要があるという事を感じますですね。どうぞ一つ、もう何と言うても、無力な私であればある程にです、分かれば分かるほどに願わなければおられんのでございますけれども。その願いが、金光大神のお取り次ぎによって、天地の親神様の、所謂、願いに繋がるところの願いでなかならければならないということですね。
どうぞ。